急行2号ワールド

いろいろします。

自分の螺旋階段を降りている話

文章がうまい人は博識だし、
絵がうまい人も博識だ。

 

これは最近気づいたことだ。
どちらも〝その場(紙面なりキャンバスなり)にふさわしい表現方法〟を自ずと引き出しから取り出してくる。
そうして残された産物に私は一切の無駄は感じない。

 

おったまげだ。
それはもう神の所業なのではないかとすら思う。

 

そこで、なぜその人たちはそんな神業的なことができるのかというと、

その「うまい人」らはオタクだと私は考えたのだ。
何かしらの。

 

オタク、つまり、何かを突きつめることができた(必要最低限の量を知識としてたくわえることができた)人たち、という意味だ。
たとえば歴史だの地理だの生物だの物品だの……

 

超絶羨ましいことこの上ない。

 

なぜなら、これがどうにも、私は昔からひとつの物事を突きつめることに楽しさを見出すことがニガテなのだ。
「なんか楽しくない」と思ったらそこでスッパリ辞めてしまう。悪い癖である。悪癖である。だからいつまでたっても未熟なのだ。ああ不甲斐ない。

 

じゃあ私、何なら楽しいのかというと、
・表現したい気持ちや感情や様子にぴったり当てはまる言葉を見つけることができたときなんか至高の愉悦を感じるし、
・描きたい線を予期せず描くことができたときにも上記と酷似した喜びと楽しさを感じる。

 

あと、
・他人の長所を見つけると楽しい。
そして嬉しい。

 

また、
・他人の短所を見つけることができるのも楽しい。
……なんていうと語弊を招くので言わせてもらうと、これは他人の短所を突っつきたいとかそういう下心の話ではなく、自分の価値観に沿った長短を見極めることができた!ということに楽しさを感じているのである。

 

そしてそれら他人の長短が社会的に〝どう〟なのか、だとかも考えていくと楽しいし、その「〝どう〟と自分が判断した部分が本当に、社会的に正しいのか。その(私が判断した)〝どう〟の部分を『間違っている』と思う誰かはいないのだろうか」……と、さらに考えぬこうとしていくことも非常に楽しい。


そう、最近は自分の価値観を浮き彫りにさせていくことが本当に楽しい。
何がダメで何が良かったとか、じゃあなぜダメなのか良かったのかその理由はなんだったのか、とか、〝自分で〟自分の中に線引きをしていくことが楽しいのだ。

第何回目かの成長期なのではないかと思う(そろそろ成熟しろという話だが)。

 

そして私の場合、その線引きの線じたいを自分の引き出しにおさめるべき宝物とし、

そうして探っていった〝どう〟の部分を、よりピッタリな言葉で文章にすることや、予期せぬ線や色で描きたいようにあらわしていくことを心から楽しんでいる。
深い螺旋階段を降っていくようなイメージで、そうやってループしている。
もちろん階段を降りきったら待っているのは人生という意味での死なんだが。

 

たぶん私は自分オタクなんだと思う。
自分のこと以外に「これだったらあなたの知識量には負けないワ」という分野を持ち合わせていないのだ。
(ただし客観性に著しく欠ける。)

 

そして他の分野での知識について、突きつめることを半ば放棄している自分なりの理由については、
「今から勉強したって上には適わないから」とさせていただく。
……なんていうとまた語弊を生むのだが!
だからといってまったく勉強しないぞ、という宣言につながるのではなく、「上に適わないまでも、必要である以上はそこそこ勉強・修練します」につなげさせていただきたい。これはちょっと強調したいところである。

 

というか、だって、先人に適うわけないじゃないか。
圧倒的技巧の手腕をもった後進にだって、適うわけないじゃないか。

……というのはお察しのとおり、ただの人生怠慢の言い訳である。
今後はそんなことを言うことのないよう気を引き締めたいと思う。